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◎ 彦根城

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 佐和山城から彦根城へ

 慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原合戦から2日後、西軍の総大将であった石田三成の居城佐和山城が総攻撃を受けて落城。翌慶長6年正月には、のちに徳川四天王の1人として讃えられる井伊直政が佐和山城に入城します。ところが直政は、関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷が悪化して翌年死去。直政より後事を託された家老木俣守勝は、城の移築計画を徳川家康に諮ります。佐和山・彦根山・磯山(米原市)の3山を候補に、彦根山への移築が決定しました。
彦根城の築城

 慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2キロの彦根山において、新たな築城工事が始まりました。彦根城の築城は、およそ20年を要しました。前期工事は主に城郭主要部に力が注がれました。幕府から6人の奉行が派遣され、近隣諸国の大名に助役が命ぜられるなど、天下普請で築城工事が行われました。大坂城をはじめ豊臣恩顧の大名が多い西国の抑えの拠点と意識され、完成が急がれたのです。候期工事は大坂の陣によって豊臣勢力が一掃されたのちに再開されました。候期工事は彦根藩単独で実施され、城郭施設とともに城下町を含む総構えがほぼ完成しました。


 ◎ 佐和山城跡 

 佐和山城の歴史

 石田三成の時代には、山上に本丸以下、二の丸、三の丸、太鼓丸、法華丸などが連なり、山下には東山道に面して大手門が開き2重に巡らせた堀の内には侍屋敷、足軽屋敷、町家などの城下町が建設され、佐和山西麓には琵琶湖の松原湊につながる百間橋が敷設されました。
 関ヶ原の合戦より遅れること2日、小早川秀秋ら寝返り組を主力とする15,000人の兵が佐和山城を包囲、三成は合戦で敗れ湖北へ逃走、佐和山城は三成の父、兄の守備は堅く執拗な攻撃によく耐えましたが、兵力の違いはいかんともしがたく落城。天守は焼かれ自刃して果てました。
 徳川家康は、関ヶ原の合戦の論功行賞として、井伊直政に佐和山城が与えられましたが、翌年、直政死去。家老の木俣守勝は家康に相談し、彦根山への移築を決定しました。
 佐和山城は、歴史のなかにのみ生きる城となったのです。